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新興善国民学校救護所。 |
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| 以下の証言は、1968年12月3日〜10日に放送されたものです。 | |||
昭和20年8月9日、私は自転車に乗って住吉町で郵便の配達をしていました。 後ろから自転車に乗ったままの格好で焼かれて、次の瞬間爆風で飛ばされたわけですね。 その時は何か近くに大きな爆弾が落ちたんじゃないだろうかと、もうそのまま死んでしまうんじゃないかと思ったわけです。 だけど「死んではならない。ここで死ぬものか」と思ってですね、自分を励まして生きてきたわけです。 しばらくして起き上がると、私の左手は肩から手の先まで、ぼろ布を下げたように皮膚が垂れ下がっていました。 痛みも全然感じず、血も一滴も出ませんでしたが、これはあの熱線と放射能によって血も一滴も出ないように、生きている人間の体から水分がなくなるように、 一瞬の出来事で吸い取られてしまったわけです。幸いにしてその日の夜雨が降りましたので、木の葉から落ちるしずくをしゃぶって一夜明かしました。 一夜明けた時には、私の周りには1人も生きた人はいませんでした。そのようにして2晩を山の中で過ごし、3日目の朝、救護隊の人に救助されました。
その時には長崎市内はおろか長崎県内でも私たちを収容するような病院はありませんでした。 そのため28kmも離れた諫早の小学校の講堂に収容されました。 とにかく時間が経つにつれて、焼けた肉がどんどん腐って流れるわけです。 うつ伏せに寝ているので、体の横に、もうどぶどぶ腐って流れたのがたまってですね、もう1日に何回もそれをふき取るようなことをしてたんですね。 私の場合は、他の人よりもその腐って流れる量が多かったと思います。 普通だったら重傷の私の方に蛆虫が湧くのが当然だったろうと思いますが、一番ひどい時にはハエすら私の体に近寄りませんでした。 とにかく自分の体の焼けたにおい、腐ったにおいですね、もう今だに脳裏に焼き付いて忘れること出来ないですね。 毎日、痛みと苦しみの中で殺してくれと叫んでいました。退院の許可が出るまでに3年7か月もかかりました。 普通は退院の許可が出ると喜ぶと思いますが私はできませんでした。 なぜなら「このような体で社会に出て、皆がどのような目で見るだろうか、皆と一緒に働くことできるだろうか」 と不安がいっぱいで、なぜ自分だけこんなに苦しまなければならないのか、その時改めて戦争を憎みました。

新興善国民学校救護所
その後、背中に腫瘍ができて、病院の先生から皮膚ガンと告げられました。 私のこの焼けた背中は、みなさんと違って皮下細胞が全然ありません。 皮下細胞というのは、人間が生きていくために非常に大切な重要な役目をしていて、息をする時だって、新陳代謝の役目をするし、また外から入って来るばい菌を食いつぶす役目もします。 皮下細胞というのは肉と皮膚との境にあるものですが、私の体はどこまでが皮膚なのかどこから肉なのかそれ自体がわからないのです。 一応表面にできたから皮膚ガンと診断されたのだろうと思います。 手術を受けましたが、3年ぐらい前からこの背中にまた変化が起きて石みたいなものが出来ました。 まるでやわらかい布団に石ころをばら撒いて、その上に寝ているような気がします。 それは月日が経つにつれて大きくなり硬さもどんどん増していきます。 同時に私の体力はどんどん衰えていきます。そのできたものは、硬いものであっても実は生き物です。 それが、私の体力を、私の肉を食って生きていくわけです。 手術で使うメスがそのできものにあたると、刃こぼれして切れなくなるような、そのようなものがずっとできてきました。 そのために手術を繰り返しました。普通の人だったらいろんな検査をすると、何かどこかに悪い所がみつかり検査結果が出てくるわけです。 だけど私の場合は、血液検査やその他のいろんな検査しても何も結果が出ません。 ある生化学の先生が、普通の人だったら、当然、このような時はこんな病気がある、このような時はこんな結果が出てくるはずだけど、 それが出ないというのは、ほんとにでるべき結果が、放射能によってそのようなものまでも食いつぶされているんじゃないかという事をおっしゃいました。 友だちの中には、ほんとにたった4,5回ぐらいの手術しか受けたことがない人でも、これ以上手術には耐え切れないと言い自殺した方もたくさんいます。
核兵器は実際この世の中にあってはならない、核兵器廃絶ですね、そのため核実験は直ちに中止させるということを私たちは訴えてきました。 私たち被爆者の中には、もう8月ということを聞きたくないと言って亡くなった人もいるし、 手術を何回も繰り返して、これ以上手術繰り返すことに耐えられないと言って亡くなっていった人たちもいます。 そんなことを知っているのでなおさらのこと、生きられるだけ生きなきゃいけないと思います。 だけども苦しいというような状態がですね、毎日続いてるわけです。 私たち被爆者が受けた原爆の後遺症というものは、それを私たちの体から取り除く医学は未だに見当たらないわけですね。 もうこれから先もとうてい無理だろうと思うわけですね。
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